私は1968年(昭和43年)にフジテレビに入社し、
バラエティー番組やイベントの制作で20年、スポーツ局で15年、
計35年を制作現場で過ごしました。
その後2003年から2013年までの10年は、デジタル放送推進協会に出向して、
テレビ放送の完全デジタル化を円滑に成就するための周知広報や、
弱者支援の事業に取り組みました。
その最中、2009年に母を亡くしました。
次の一文はデジタル化が完了した2012年に、
デジタル放送推進協会のホームページに寄稿したものです。
バラエティー番組やイベントの制作で20年、スポーツ局で15年、
計35年を制作現場で過ごしました。
その後2003年から2013年までの10年は、デジタル放送推進協会に出向して、
テレビ放送の完全デジタル化を円滑に成就するための周知広報や、
弱者支援の事業に取り組みました。
その最中、2009年に母を亡くしました。
次の一文はデジタル化が完了した2012年に、
デジタル放送推進協会のホームページに寄稿したものです。
母のテレビ(2012年10月)
私は仕事上の使命感もあって、
デジタル受信機には贅沢をしてきたと思っている。
地デジ普及推進の節目の日にテレビを買った。
最初は2003年12月1日。
赤坂プリンスホテルで地上デジタル放送開始記念式典を終えたが、
我が家ではデジタル放送を見られない。
大急ぎで新宿の量販店へ走って42インチを買った。
もちろんUHFアンテナの工事も頼んだが、まだ電波が弱くて無理だという。
結局ケーブルテレビに加入した。
次は2006年12月1日。
「地デジ全国開局記念式典」からの帰途に、
発売後まもない65インチを購入した。
びっくりするほど高価で、配送・据え付けは5人がかりの大騒ぎだった。
そして2012年4月1日、東北3県のアナログ放送終了の翌日に、
3D対応の70インチが我が家のリビングに鎮座した。
価格は前の65インチの半分以下で最初の42インチよりも安かったし、
2人で運んできて簡単に置いていった。
我が家のテレビの変遷にも地デジ普及のプロセスの一面を見ることができる。
このほかにも大小数台のテレビを買ったが、
その中の1台に母の思い出がある。
母はテレビが大好きだった。
脳梗塞で体が不自由になり、看病してくれていた父が先に逝き、
「生きていても楽しくない」と託ちながらテレビばかり見ていた。
ベッドサイドのテレビに2台のVTRを接続、
1台はBSチューナー付き、もう1台の外部入力にはCATV、
かなり複雑なシステムだが長年の慣れで習熟している。
見事なリモコン捌きで、地上波、BS、CSの好みの番組を録画するから、
ビデオカセットが何本あっても足りないという状態だった。
家内などは「これがおもしろかったから見なさい」と
VTRを何本も押しつけられる。
テレビっ子ならぬ「テレビばあさん」と呼ぶにふさわしい人だった。
地上デジタル放送が始まって「母のテレビもデジタルに」と思ったが、
八十歳を超えた母が取り扱いに戸惑うことを恐れて、
しばらくはアナログのままにしておいた。
もうそろそろと言うことで、
2007年になって母のテレビをデジタル受信機に替えた。
VTRもDVDに替えた。
アナログの時と同じことが全部できるようにして、
母専用の「テレビ操作ガイド」と「DVD操作ガイド」を私が作った。
番組を見たいとき、BSやCSを見たいとき、録画したいとき、
2番組同時録画、毎週録画、消去…
文字を大きくして、わかりやすく色付けして、
地デジ普及促進の専門家が精魂込めたA4版「スペシャル取り説」である。
母は、画面がハッキリしてキレイで見やすくなったと喜んだ。
EPGが便利だとも言った。
私は「スペシャル取り説」を使って操作を教えた。
以前のシステムに比べれば操作も簡単になっているはずなのだが、
母にとっては簡単ではなかった。
どこかの手順で間違ってしまう。
ひとつ間違うと自力では解決できなくて
「ちょっと来てぇ〜」と内線電話で2階にいる私を呼ぶ。
こちらに余裕があるときは優しく丁寧に手伝ってやれるのだが、
忙しい時や疲れている時などは
「まだ覚えられないの?」「昨日も教えたじゃないの!」
とつい言葉を荒げてしまったりする。
そのたびに母は悲しそうな顔をする。
「もういいわよ、テレビなんか見ない」とふてくされてしまう。
こんな状態を繰り返して、母のテレビの見方が変わってしまった。
たまにチャンネルボタンをさわるくらいで、
あとは点いているテレビを見るだけ。
アナログ時代の「テレビばあさん」の面影が消えていった。
2009年1月に母は86歳で逝った。
天国でテレビをちゃんと見られるように、
棺の中に「スペシャル取り説」を入れてやった。
家内が最後までよく面倒を見てくれたし、
私の弟夫婦、娘夫婦、孫たちも協力してくれて、
できるだけの介護はできたと思っているが、
テレビのことだけは後悔として残った。
そして、この後悔は地デジ普及促進終盤の私の仕事に少なからず影響した。
国策としてデジタル化は是非とも成し遂げなければならないが、
母のように辛い思いをする人も沢山いるということを実感したからである。
高齢者のみならず、経済的に苦しい人、
情報不足や知識不足でどうすればいいのかわからない人。
「弱い立場の人が大勢いるんです」
主婦連の河村真紀子さんの日頃のアドバイスが身に染みた。
このことを肝に銘じた。
私ごときに特別なことができるわけではないが、
キャッチコピーを決める、
スポットやポスターを作る、
イベントを企画・制作する、
デジサポのアドバイザーに訓辞する、
仲間のスタッフや関係者と議論する、
どんな場面でもこのことを強く意識するようになった。
過ぎてみれば、思いのほか平穏にアナログ放送を終了することができた。
さまざまな負荷に耐えて我慢してくださった
国民・視聴者のご協力の賜物である。
我々はそれを忘れてはならない。
そして、国民・視聴者に報いなければならない。
「地デジ化の成否、それは、国民を幸せにできるかどうかです」
これも河村真紀子さんの言葉である。
「さぁ!テレビ新時代」
テレビは国民を幸せにしなければならない。
それが即ち、テレビ放送事業の安泰と進化に繋がる。
そのことばかりを思う昨今である。
2009年の秋、“地デジで親孝行キャンペーン”で川柳を募集した。
私が最優秀に推した作品は「寝たきりの母と地デジで紅葉狩り」。
残念ながら選外だったが…
母が格闘したテレビは今も我が家で活躍している。
母と最後の初詣(新宿熊野神社)