私は三人の孫に恵まれている。
三人とも男子で、K・S・T、
小さい頃は私の絶好の遊び相手だったが、
いまや大学一年生、高校二年生、中学二年生ともなると
なかなか相手をしてもらえない。
三人三様の成長ぶりを見守ることで満足するしかない。
仲の良い三兄弟だが、容貌、性格、趣味、志望、
みんな似て非なるところが面白く頼もしい。
末っ子のTが長唄三味線の稽古を始めて六年になる。
小学校二年生の時に、或るパーティーで
津軽三味線の山本大さんの生演奏を聴いてよほど感動したらしく、
三味線を習いたいと言い出した。
私にとっては勿怪の幸いであった。
私は、大学受験に失敗して浪人した昭和三十八年に
長唄三味線の稽古を始めた。
浪人生活の暇潰しのつもりだったが面白くなって、
「浪人中になにごと」と父母が怒るほど熱中した。
大学を卒業するまでの5年間はかなり稽古を積んだが、
フジテレビに入社すると、当時の制作の駆け出しADに
余暇などあるはずもなく、三味線の稽古はなおざりになった。
それでも、師匠(杵屋長三郎)が見捨てずに
面倒を見てくれたおかげで曲がりなりにも稽古を続け、
昭和五十四年に名取(杵屋長八郎)を許された。
その後は仕事がさらに忙しくなり、頼りの師匠も亡くなり、
私が三味線を手にすることは稀になってしまったが、
今にして思えば、勿体ないことをしたと思う。
還暦も超えた頃になって
根っからの三味線音楽好き、伝統芸能好きが頭を擡げてきて、
昔取った杵柄にちょくちょく触れるようになった。
長唄のみならず端唄や津軽三味線にも惹かれて、
本條流家元の本條秀太郎さん、津軽三味線の山本大さんに師事した。
四十年前の腕前に戻るべくもないが、それなりに楽しんでいた。
そこへ孫の登場である。
まずは私が長唄三味線の手ほどきをすることにした。
すぐに飽きてやめることになるかもしれないと考えて、
どなたか師匠を探してお願いすることを躊躇したからでもあるが、
孫と向き合い稽古する至福の時間、孫から師匠と呼ばれる快感、
私がこのおいしい役目を放棄するはずもない。
まだ小さな身体に合わせて小振りの三味線を仕立て、
道具類を揃い立てて、ジィジとTちゃんのお稽古が始まった。
こんな小さな子に長唄は難しい。
「三味線を弾くのが面白いと思わせるためには・・・」
最初はそればかりを考えて稽古のメニューを作ったのだが、
思ったよりもTちゃんの飲み込みが早い。
三ヶ月ほどで「さくらさくら」「ことぶき」「松の緑」と
基本的な曲の稽古を済ませた頃には、
Tちゃんは赤譜(三味線用のタブラチュアの譜面)を読み取るようになり、
勘所や撥使いも一通りこなすようになった。
ジジバカで言えば、Tちゃんは人並み以上の
音感とリズム感に恵まれているようだ。ならば三段跳びで・・・
長唄「京鹿子娘道成寺」の「チンチリレンの合方」を練習曲に選んだ。
そもそもは津軽三味線の激しい演奏に魅せられたTちゃんが
喜んで挑戦すると考えたからである。これが図に当たった。
驚くほどのスピードでTちゃんはチンチリレンをこなしていった。
もちろん不完全ではあるが、
三味線の演奏のコツのようなものをわかり始めた様であった。
稽古を始めて半年も過ぎた頃には、
私はTちゃんの三味線で「ことぶき」「松の緑」を唄い、
「岸の柳」の替手を弾き、「チンチリレン」の早弾き競争を楽しむまでになっていた。
ちょうどこの頃、「東京都キッズ伝統芸能体験」の参加募集があり、
その長唄部門の稽古が西東京市で行われるというので
応募させたところ運良く参加を許され、
Tちゃんは2012年9月から本格的に長唄の稽古に取り組むことになった。
翌年3月に「キッズ伝統芸能体験」を卒業してからは、
自宅の近くにお住まいの稀音家六田嘉さんに師事して週に一度の稽古を続けてきた。
時々は私も一緒に稽古に通った。
孫が同好の士になってくれるとは、ありがたいことである。
そして、6年後の今年、中学二年生になったTちゃんは、
10月8日、師匠・稀音家六田嘉さんの推挙で、
「六代目稀音家六四郎襲名披露・長唄演奏会」の
国立小劇場の舞台で演奏する機会をいただいた。
私の興奮と心配をよそに、晴れの舞台でTちゃんは輝いていた。
私はこよなくうれしかったが、同時に、Tちゃんに追い越されたことを悟った。
そしてまたすぐに、「まだ負けるものか、勝負してやる。」とも思った。
KもSもTもいつの間にか成長して、とっくに私より背が高くなった。
身長だけではなく、いろいろなところで私を超えているのだろう。
私も年齢や病気のことなど考えずに頑張っているつもりだが、先は知れている。
勝ち目はない。これが世代交代なのであろう。
Tちゃんの三味線は幸せな世代交代の証なのである。