2016年11月18日金曜日

回想②「母のテレビ」

私は1968年(昭和43年)にフジテレビに入社し、
バラエティー番組やイベントの制作で20年、スポーツ局で15年、
計35年を制作現場で過ごしました。
その後2003年から2013年までの10年は、デジタル放送推進協会に出向して、
テレビ放送の完全デジタル化を円滑に成就するための周知広報や、
弱者支援の事業に取り組みました。

その最中、2009年に母を亡くしました。

次の一文はデジタル化が完了した2012年に、
デジタル放送推進協会のホームページに寄稿したものです。

母のテレビ(2012年10月) 
私は仕事上の使命感もあって、
デジタル受信機には贅沢をしてきたと思っている。
地デジ普及推進の節目の日にテレビを買った。
最初は2003年12月1日。
赤坂プリンスホテルで地上デジタル放送開始記念式典を終えたが、
我が家ではデジタル放送を見られない。
大急ぎで新宿の量販店へ走って42インチを買った。
もちろんUHFアンテナの工事も頼んだが、まだ電波が弱くて無理だという。
結局ケーブルテレビに加入した。
次は2006年12月1日。
「地デジ全国開局記念式典」からの帰途に、
発売後まもない65インチを購入した。
びっくりするほど高価で、配送・据え付けは5人がかりの大騒ぎだった。
そして2012年4月1日、東北3県のアナログ放送終了の翌日に、
3D対応の70インチが我が家のリビングに鎮座した。
価格は前の65インチの半分以下で最初の42インチよりも安かったし、
2人で運んできて簡単に置いていった。
我が家のテレビの変遷にも地デジ普及のプロセスの一面を見ることができる。
このほかにも大小数台のテレビを買ったが、
その中の1台に母の思い出がある。 
母はテレビが大好きだった。
脳梗塞で体が不自由になり、看病してくれていた父が先に逝き、
「生きていても楽しくない」と託ちながらテレビばかり見ていた。
ベッドサイドのテレビに2台のVTRを接続、
1台はBSチューナー付き、もう1台の外部入力にはCATV、
かなり複雑なシステムだが長年の慣れで習熟している。
見事なリモコン捌きで、地上波、BS、CSの好みの番組を録画するから、
ビデオカセットが何本あっても足りないという状態だった。
家内などは「これがおもしろかったから見なさい」と
VTRを何本も押しつけられる。
テレビっ子ならぬ「テレビばあさん」と呼ぶにふさわしい人だった。 
地上デジタル放送が始まって「母のテレビもデジタルに」と思ったが、
八十歳を超えた母が取り扱いに戸惑うことを恐れて、
しばらくはアナログのままにしておいた。
もうそろそろと言うことで、
2007年になって母のテレビをデジタル受信機に替えた。
VTRもDVDに替えた。
アナログの時と同じことが全部できるようにして、
母専用の「テレビ操作ガイド」と「DVD操作ガイド」を私が作った。
番組を見たいとき、BSやCSを見たいとき、録画したいとき、
2番組同時録画、毎週録画、消去…
文字を大きくして、わかりやすく色付けして、
地デジ普及促進の専門家が精魂込めたA4版「スペシャル取り説」である。
母は、画面がハッキリしてキレイで見やすくなったと喜んだ。
EPGが便利だとも言った。
私は「スペシャル取り説」を使って操作を教えた。
以前のシステムに比べれば操作も簡単になっているはずなのだが、
母にとっては簡単ではなかった。
どこかの手順で間違ってしまう。
ひとつ間違うと自力では解決できなくて
「ちょっと来てぇ〜」と内線電話で2階にいる私を呼ぶ。
こちらに余裕があるときは優しく丁寧に手伝ってやれるのだが、
忙しい時や疲れている時などは
「まだ覚えられないの?」「昨日も教えたじゃないの!」
とつい言葉を荒げてしまったりする。
そのたびに母は悲しそうな顔をする。
「もういいわよ、テレビなんか見ない」とふてくされてしまう。
こんな状態を繰り返して、母のテレビの見方が変わってしまった。
たまにチャンネルボタンをさわるくらいで、
あとは点いているテレビを見るだけ。
アナログ時代の「テレビばあさん」の面影が消えていった。 
2009年1月に母は86歳で逝った。 
天国でテレビをちゃんと見られるように、
棺の中に「スペシャル取り説」を入れてやった。
家内が最後までよく面倒を見てくれたし、
私の弟夫婦、娘夫婦、孫たちも協力してくれて、
できるだけの介護はできたと思っているが、
テレビのことだけは後悔として残った。
そして、この後悔は地デジ普及促進終盤の私の仕事に少なからず影響した。
国策としてデジタル化は是非とも成し遂げなければならないが、
母のように辛い思いをする人も沢山いるということを実感したからである。
高齢者のみならず、経済的に苦しい人、
情報不足や知識不足でどうすればいいのかわからない人。
「弱い立場の人が大勢いるんです」
主婦連の河村真紀子さんの日頃のアドバイスが身に染みた。
このことを肝に銘じた。
私ごときに特別なことができるわけではないが、
キャッチコピーを決める、
スポットやポスターを作る、
イベントを企画・制作する、
デジサポのアドバイザーに訓辞する、
仲間のスタッフや関係者と議論する、
どんな場面でもこのことを強く意識するようになった。 
過ぎてみれば、思いのほか平穏にアナログ放送を終了することができた。
さまざまな負荷に耐えて我慢してくださった
国民・視聴者のご協力の賜物である。
我々はそれを忘れてはならない。
そして、国民・視聴者に報いなければならない。
「地デジ化の成否、それは、国民を幸せにできるかどうかです」
これも河村真紀子さんの言葉である。 
「さぁ!テレビ新時代」 
テレビは国民を幸せにしなければならない。
それが即ち、テレビ放送事業の安泰と進化に繋がる。
そのことばかりを思う昨今である。  
2009年の秋、“地デジで親孝行キャンペーン”で川柳を募集した。
私が最優秀に推した作品は「寝たきりの母と地デジで紅葉狩り」。
残念ながら選外だったが…
母が格闘したテレビは今も我が家で活躍している。

母と最後の初詣(新宿熊野神社)

回想① 「手」

弊社にっぽん市
BSフジ「新春スペシャル! オールスター家族対抗歌合戦」を制作します。
収録本番まで1ヶ月。
このところ出場してくださるみなさんとの打合せが続いていますが、
それぞれの家族のさまざまなエピソードに触れて、感激すること頻りです。
そんな中で、自然と自分の家族のことを考えたり思い出したりして、
遠い昔に家族のことを書いた拙文をひさしぶりに読み返しました。
それを紹介させてもらいます。
「手」(1999年3月) 
初孫に恵まれてひと月余り。
娘と妻が買い物に出かけた数時間、赤ん坊を預かった。
この時とばかり抱っこして、名前を呼んだり、ほっぺを突っついたり、
相好を崩してあやしてみるが、
まだ目も見えない赤ん坊が反応してくれるはずもない。
小さなにぎりこぶしが可愛くてじっと見ていたが、
ふと、「なぜ手を開かないのだろう」と不思議に思い、
おそるおそる指をこじ開けにかかった。
小指を赤ん坊の手のひらにもぐり込ませてゆく。
すると、赤ん坊の手は開くどころかしっかりと私の小指を握りしめてくる。
けっこう力がある。
ちょっと引っ張ってみると、明らかに力を入れて引っ張り返してくる。
私は嬉しくなって、小さなにぎりこぶしとの引っ張りっこを存分に楽しんだ。
私の小指にしがみついている赤ん坊が、
私を慕ってくれているような気がして、つくづく愛しいと思った。
私と孫との初めての握手である。 
儀礼的なものは別として、握手する・手をつなぐというのは、
もっとも素朴で便利な愛の交流法である。
手のひらでお互いの皮膚や体温に触れて、
好意や信頼を感じたり、深めたりすることができる。
そして安心するのだ。
手をつないで歩いているふたりは間違いなく仲がいい。
私も五十年余りの人生で、何人の人と手を取り合っただろうか。
出会いや別れの握手、激励や団結の握手、喜びや感激の握手。
父母に手を引かれ、子供たちの手をとり、
仲間と手をつなぎ、恋人の手を握った。
大きくて力強い手、優しくて温かい手。
私の人生を支え、彩ってくれたたくさんの人々の顔とともに、
その手の感触を思い出すことができる。 
私には特別に大切な手がある。妻の手である。
のろけを言うつもりはない。
三十年も前になるが、結婚後二年ほどして私は不安神経症になった。
ノイローゼである。
頭痛、目眩、吐き気は序の口で、心臓が今にも止まるような恐怖に襲われて、気が狂いそうになった。
徹底的な検査を受けたが、身体に異常はないと言われ、精神科にも通った。
思い出すのも嫌なほど苦しい毎日だった。
特に夜が辛い。眠れないのだ。
枕元に幾種類もの薬を用意し何冊もの本を並べて不眠と戦った。
妻は長女を出産した直後だったが、そんな私の面倒を根気よく看てくれた。
ある夜、例によって眠れない私は、
なんとなく、横で寝息を立てている妻の手を握った。
苦しくて辛くて、自分が情けなくて、妻に申し訳なくて、
妻の手を握ったまま泣いた。
そして、眠ってしまったのである。
ひょんなことから眠る工夫が見つかったわけで、
それからは妻の手を握る癖がついてしまった。
このノイローゼは二年ほどで治ったが、私はそれ以来、今でも、寝付かれない時や体調がよくない時は、妻の手を握って眠る。
不思議に落ち着くのだ。
つい先日も風邪で発熱し、ひさしぶりに妻の手の世話になった。
「こいつの手もだんだん固くなってきたなぁ」などと思いながら、
やっぱり温かくて気持ちがよかった。 
小さな孫の手と温かい妻の手。
どちらも、私のかけがえのない宝物である。
そして私の手も、妻や孫の宝物でありたい、
関わり合う人たちを安心させる手でありたいと願う。
2005年、3人の孫たちと。
今年は長男が大学受験・次男が高校受験・三男が中学受験…
と勉強に忙しくて遊んでもらえない。

2016年11月11日金曜日

庶民の愚考

私は一般人です。庶民です。
私がこう言うと、「あなたは人並以上の給料をもらって好きなものを食べて好きなことをやって恵まれた生活をしてきた。庶民ではない。」と言う人もいます。
庶民であるか否かは稼ぎや生活程度で決まる? 
なるほど、そういう一面もあるかもしれません。
が、庶民にだって金持ちもいれば貧乏もいます。
恵まれた生活か否かは本人しかわからないことで、
傍目で決められることではないでしょう。
それはともかく、私が言う一般人≒庶民は、
「特別な地位や身分を持たない、社会的特権を持たない、普通の人。」
これが本来の意味だと思います。
だから、私は庶民です。

民主主義・自由主義の社会では庶民が主役ですよね。
基本的人権やさまざまな「自由」が保証されていて、国家や社会は庶民のためにある。
昔はそうではなかった。
王様とか貴族とか特別な身分の人、あるいは、抜きん出た武力や財力を持った人などが社会的特権を持って庶民を支配していた。
庶民はその圧力や束縛から逃れるために、長い年月をかけて、革命を起こし戦争までして、民主主義・自由主義の社会を作ったはずなのです。
ならば、現在、民主主義・自由主義の下で庶民は社会の主役になっているでしょうか? 
みんなが庶民になって権力者はいなくなったでしょうか? 
もちろん否です。
残念ながら、民主主義・自由主義の名の下に新たな権力構造が作られ、新たな権力が生まれ、その権力によって大多数を占める庶民が右往左往させられている、というのが実情です。
しかも、その権力は「民主主義・自由主義の制度の下で庶民が認めた」という大義名分のある権力ですから、昔の権力よりも始末が悪いところがあるように思います。

私は民主主義・自由主義を軽視したり否定したりする者ではありません。
人々が「より幸せに生きていきたい」と、長い時間をかけてたどり着いたモアベターな社会の有り様なのですから。
しかし、昨今の世の中をみるにつけ、民主主義・自由主義にもいろいろと問題がある。
民主主義・自由主義がベストだとはとても思えません。
このギャップをどのように埋めたらよいのでしょうか。
一つには、共産主義が事実上は滅びてしまったように、民主主義・自由主義にも終焉の時が迫っているという考え方があります。
この場合は、民主主義・自由主義を越える理念を創らなければなりませんが、浅学非才の私などには及びもつかないことです。
いつの日か、誰かが、次世代社会の理念を唱え始めることを想像し期待するしかありません。
もう一つは、いまの世の中は民主主義・自由主義の真の理念を具現していない、民主主義・自由主義の理念を正しく理解し、それに沿って社会の有り様を修正しなければならないという考え方、
私はこちらを選択することにします。
それで、私は、とりあえず、いまの世の中で「これは変だ」「修正する必要がある」と思うことを並べ立ててみようと思っています。
そして、いろいろな考え方があることを承知の上で、「原理原則に照らして物事を単純化して考えてみる」という方法で、私の年来の疑問を投げかけてみたいと思っています。

政治家が「国民は・・・」と言いますが、そんなに安易に、自分たちに都合良く、国民を十把一絡げにしないでほしいと、いつも思います。
民主主義だからこそ庶民が考えて物言うことをもっと大事にしたいのです。

学者でも政治家でも評論家でもない、有識者でも文化人でも著名人でもない、一庶民の単純な疑問や考え方を愚直に述べてみようと思っています。

庶民のみなさん、ご一緒にいかがですか?

2016年11月10日木曜日

家族

私はフジテレビで昭和47年から昭和61年まで「オールスター家族対抗歌合戦」という番組を制作しました。
28歳から42歳までですから、私のテレビマンとしての青春を捧げた番組と言えるでしょう。その価値のある番組でした。

「著名人の家族が5チーム出場して歌合戦をする」単純な番組でしたが、萩本欽一という希代の名司会者と古関裕而・近江俊郎・水の江滝子などのレジェンド審査員が絶妙のトークで引き出す家族の機微に笑ったり泣いたり。
この番組は歌とトークで家族の有り様を描くドキュメンタリーバラエティーだと考えて制作に勤しみました。
毎週日曜日の夜8時放送、足かけ15年間699回、1441家族と出会い、1441通りの家族の有り様に触れ、そのうちのかなりの数の家族とは現在に至るまで親交があります。
夫婦や嫁姑の揉め事の仲裁もしました。子育ての相談相手にもなりました。
一緒に泣いたり笑ったり。というわけで、私は「家族問題評論家」というのがあれば有資格者だと自負しています。

もっとも、私の家族に言わせれば、「仕事にかまけて家庭のことは父母の世話も子育ても家内に任せっぱなし、まずは自らについて論評せよ。」ということになるでしょう。
そんな私でさえも、家族がいたから、家族に支えてもらったからここまでやってこられたと認めざるを得ません。

今年(2016年)、BSフジで30年ぶりに「復活!オールスター家族対抗歌合戦」を制作させてもらいました。
昭和から平成へ、核家族化、少子高齢化、女性の社会進出、介護問題、待機児童問題…家族の有り様が大きく変わったことを承知の上で、敢えて30年前の番組作りのコンセプトや手法にこだわって制作しました。結果、不都合や違和感はまったくありませんでした。ホッとしました。
家族の形態は変わっても家族の絆の強さや情愛の深さは変わっていないことを確認できたからです。

家族は人間関係の根本です。
家庭は社会(国家)の基本単位です。
家族が幸せでなければ、家庭が乱れれば、その集合体である社会が安定するはずがありません。
核家族化が進めば老人介護の問題が起きるのは当然です。
女性が家庭を出て働くようになれば子育ての問題が起きるのは当然です。
高福祉があたりまえの社会になってきていますが、社会に依存し社会の責任を問うだけではなく、社会を構成する一員としての自助努力や自己責任を忘れてはならないと思うのです。

私たち夫婦は結婚当初から両親と同居し三世代世帯を営みました。
家内は大学で勉強した英語を活かして高校教師になったのですが、子供ができると迷わず教師を辞めて専業主婦になりました。
以来、私は仕事一途、家内は子育てと家事一途、老後の両親は孫と至福の時間を過ごし、家内の手厚い在宅介護を受けて安らかに旅立ちました。
現在は、私たちが老境に入ってふたりでマンション生活、至近距離に娘夫婦と孫たちの住まいがあって、家内は高校教師になった娘の母親業をバックアップしたり孫たちに英語を教えたりするのを楽しんでいます。

昨今の風潮とは逆方向かも知れませんが、私は、家族はできるだけ一緒に居て、それぞれの世代がそれぞれの役割を果たして、支え合って暮らすべきだと考えます。
そして、曲がりなりにもそれができた私の家族を誇りに思っています。

またまた「オールスター家族対抗歌合戦」を制作させていただくことになりました。
BSフジ「新春特番 オールスター家族対抗歌合戦」(放送 1月2日 夜7時~10時)
観ていただけるとうれしいです。

2016年10月1日土曜日

株式会社にっぽん市(いち)設立にあたって

はじめまして。
この度株式会社にっぽん市(いち)を立ち上げました
浜口哲夫と申します。

私は日本を「美し国(うましくに)」と
言い表すのが好きです。
語源は万葉集や日本書紀まで遡るようですが、
難しいことはさておき、
単純に語感が好きなのです。
日本は美しい国・すばらしい国・よい国と、
端的に表現していると思うのです。
そして、日本が「美し国」であり続けてほしい、
「美し国日本」が国民意識であってほしいと願う者です。

では、「美し国」とはどんな国?
その答えは、日本人ひとりひとりの頭の中、
心の内にあるもの。
日本人が持つべき矜持だと思います。

私たちは、
学校で一通りの日本史を学ぶ、
身近な先人から話を聞く、
本を読む、
映画やテレビを見る、
史跡や遺跡を訪ねる、等々、
さまざまな方法で情報を得て、
その情報を信じて、
日本の二千数百年の歴史を思い描きます。
その中に、日本の特徴的な
自然、国柄、人柄、伝統、文化、習慣、
さまざまな「美し国の素」が
たくさんあるはずです。

でも、「美し国」は
昭和20年に壊滅させられました。
私が知っているのはその後70年の日本です。
日本は戦後復興に励んで、
技術立国、経済大国となりましたが、
「美し国」はいっこうに
復活していないように思います。

日本が真に戦後を脱して
本来の日本として再生するためには、
モノ・カネだけではなく、
日本人の矜持を取り戻すことが必需です。

私は、さまざまな分野で、さまざまな方法で、
「美し国」の復活を日本中に働きかけたいと願い
「にっぽん市」を開くことにいたしました。

非才・非力の私にできることなど
高が知れておりますが、
せめて一石を投じて
小さな波紋でも起こすことができますように、
ご共感ご共鳴くださる皆様方の
お力添えをお願い申し上げます。

浜口哲夫